昨年12月から7か月に亘った育児休職期間が幕を閉じます。「終わるときに振り返るとあっという間だったなと思うかもな」と思いながら過ごしてきて、今改めて振り返ると、結構長かったなと思います。
育児のための休職期間なので、もちろん育児を中心に過ごしたつもりです。想像と違ったのは、本来の育休対象である長女ではなく、4歳の長男の世話に明け暮れた育休だったことです。
ブログの投稿内容を見直すと、タグの大半に「長男」と入っており、その数は「長女」の数倍に上ります。長女の世話は主に妻に任せ、私は長男を引き取るという役割分担があったため、特に違和感はありません。ただ、夫婦の悩みの種の大半が長男だったということは事実です。長男がもっと穏やかだったら、この育休期間はもっと楽しく心安らかな時間だったのだろうと思います。そもそも育休を取る必要がなかったかもしれません。
当然ではありますが、思い出がたくさんできました。平日であっても私が自由に動けたことで、私の実家に2泊3日で帰省したり、親戚に会いに行けたりしました。
また私は欲張りなので、育児だけではなく、人生の満足度を高めるため、様々なことを学ぶ時間に充てました。
育児関係ではアンガーマネジメントやチャイルドコーチング。
金融面でファイナンシャルプランナーや簿記の復習、投資についても勉強しました。
また防災士の資格を取ったり、地域の消防団にコンタクトしたりして、社会との繋がりを意識するようになりました。
個人的に関心が強い自然環境の保全については、ショベルカーやチェーンソーの使い方を学んだり、耕作放棄地の再生に取り組んでいる事業者や、古民家と蓮根の育成を起点とした里山での活動を進める団体でのボランティア活動を行ったりしました。
自分の興味関心に従って動いたり学んだりしていたため、会社の業務には殆ど必要のないものばかりであり、これが「リスキリング」と呼べるかどうかはわかりません。しかし私にとってはどれもとても興味深く、学んだり行動したりしてワクワクするものばかりでした。社会にとってはプラスだと思います。そんなことに時間と体力を使えることがとても幸せでした。
出社している時とは生活や活動の時間が大きく異なりました。端的に、超朝型で活動していました。長男を寝かしつける21時過ぎには一緒に寝るため、夜に活動することはなく、その代わり朝4時に起きる日々が続きました。
早朝、妻子がまだ起きていない4時から7時までの3時間が毎日のボーナスタイム。基本的に家にいたくない性格なので、24時間営業のマクドナルドやネットカフェなどに入り浸りました。上述した勉強をしたり、読書をしたり、思案したり、自分のためだけに使える時間がある幸せを実感できたひと時でした。
日中は長男が保育園に行っており、また長女もあまり手が掛からない子だったので、客観的に見ると時間にも体力にも精神面でも余裕があったかと思います。但し、「育休中なのだから、日中あまり家を空けるわけにはいかない。妻に負担を掛けてはならない」という強迫心があり、自分で自分の行動や思考を制限していました。
この制限が非常に強かったことが、主観的にはそんなに余裕があったようには思えなかった要因でした。
保育園には大変お世話になりました。夫婦とも育休中のため、「そんなの親が面倒見るべき」と言われても已む無しではあるものの、正直なところうちの長男は夫婦だけで面倒を見られるほど甘い存在ではありません。これは保育園の先生も、習い事の先生も仰っていたことで、客観的に見てもうちの長男は大人が手を焼く存在だったと思います。
子育ては両親だけが行うのではなく、親族や地域を含めた大勢の大人が一緒になって、入れ代わり立ち代わり面倒を見るのが、人間として自然なプログラムなのかと思います。
親だけが子供を見るのが主流である現代は本当にしんどいなと心から感じます。高齢者一人を支える労働人口が年々減ってきているという話はよく耳にします。一方、子供一人を支える労働人口は年々増えてきています。これは子供の数が減っているからです。
高齢者は社会全体が支えないといけないのに、子育ては親だけに任せる社会でいいのか、という問題提起をしている本を読みました。高齢者の支援も子育ても、当事者である家族だけで完結できるものではない、社会全体で行っていくべきという考えには強く賛同します。
これは子育てをしている、したことのある人間でないと想像もできないと思います。数年前の私でも、想像はできても実感はできなかったかと思います。私も子育て中の当事者ではある一方、高齢者や子育てを支える社会の一員でもあるので、自分の家庭だけに留まらず、できる限り他者に優しくできる存在でありたいです。
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